午後三時。古びた木造アパートの二階、「夢占い ゆめうら」の小さな部屋に、風鈴の涼やかな音色が響いていた。
窓から差し込む西日が、藤色の暖簾に優しい影を落としている。私は机に向かい、今朝方の依頼人の夢日記を整理していた時、玄関の引き戸がそっと開く音がした。
「あの、すみません…」
声の主は、二十代後半くらいの女性だった。濃紺のワンピース姿で、どこか落ち着かない様子が印象的だった。
「よくいらっしゃいました。どうぞ、お座りください」
彼女―藤島由香さんは、椅子に腰かけると、小さく深いため息をついた。
「実は、最近見た夢のことで…」
由香さんの見た夢は、こんな内容だった。
真夜中の水族館。館内は閑散としているのに、どこからともなく柔らかな青い光が漏れている。大きな水槽の前に立つと、そこには無数の青い蝶が舞っていた。水の中なのに、蝶は優雅に泳ぐように飛んでいる。近づくと、蝶たちは小さな渦を作り始め、その中心に母親らしき人影が浮かび上がった。母は笑顔で手を振っているのに、由香さんが手を伸ばすと、すべての蝶が一斉に散っていき、水槽のガラスが砕け散る。その瞬間、激しい喪失感と共に目が覚めた―という。
「この夢を見てから、なぜか毎日泣いてしまって…」由香さんの声が震えた。「実は母が、先月他界したばかりで…」
私は静かに目を閉じ、夢の情景を思い浮かべる。青い蝶、水族館、母の幻影…それぞれのシンボルが、確かな意味を持って私の中で結びついていく。
「由香さん」私は優しく声をかけた。「この夢は、あなたのお母様からのメッセージかもしれません」
由香さんは息を飲んだ。
「水は感情を表します。特に深い水槽は、私たちの心の奥底にある感情を象徴することが多いんです。そして青い蝶は…魂の象徴なんですよ」
「魂の…」
「はい。特に青い蝶は、天国からの訪問者とされることもあります。水の中を自由に飛ぶ蝶は、次元を超えた存在を表しているのかもしれません」
由香さんの目に、小さな涙が光った。
「でも、最後に水槽が割れてしまって…」
「それは」私は微笑んだ。「むしろ良い兆候です。ガラスの壁は、あなたとお母様の間にある別れの壁。それが砕けるということは、その壁を超えて、新しい形でお母様とつながれるということかもしれません」
その時、不思議なことが起きた。部屋の窓を、一匹の青い蝶が舞い通り過ぎたのだ。秋も深まりつつある時期に、こんな鮮やかな蝶を見るのは珍しい。由香さんと私は、思わず顔を見合わせた。
「実は…母が生前、よく蝶の刺繍をしていたんです」由香さんの表情が明るくなっていく。「この服も、母が最後に作ってくれたものなんです」
彼女のワンピースの襟元を良く見ると、確かに小さな蝶の刺繍が施されていた。
「お母様は、きっとあなたのことを見守っていらっしゃいます。夢の中で手を振っていた笑顔が、それを表しているんですよ」
帰り際、由香さんは晴れやかな表情を見せていた。「また夢を見たら、来てもいいですか?」
「ええ、もちろんです。いつでもどうぞ」
夕暮れ時、私は窓辺に立ち、さっきの青い蝶の行方を探した。見つからなかったが、不思議と心が温かくなっているのを感じた。夢の世界は、時として現実以上に確かな真実を映し出すことがある。それを読み解くのが、私たち夢占い師の仕事なのだ。